音楽家になりたかったのに。

 幼少のころ、私は音楽家になりたかった。小学校二年生の時に書いた作文にも「オーケストラの指揮者あるいは野球選手になりたい」と書いたことを、今でも憶えている。(野球選手と書いたのは、単にそのころにそういうのが流行りであっただけである。しかも、当時の私は野球などやったこともなかった。)しかし、周囲の大人は誰一人として、その内容を真面目に受け止めることはなかった。

 私は、家に帰るとよく一人で黙々と数少ない手持ちのレコードを聴き漁っていた。家には楽器が無かったので、流れてくる音に合わせて指揮者のように手を振ってみたり、算盤やら薬瓶やらを見つけてきてパーカッション代わりしてみたり、空き箱に輪ゴムを張って音を出してみたりした。それを見た父は、ただただ面白がったり呆れたりするだけで、私の本当にやりたいことを知る由もなかったし、知ろうともしなかった。

 そんなある日、すぐ隣りの家に新婚のご夫婦が引っ越してきた。とても優しそうなご夫婦だった。隣の家といっても、うちの周りはすべて社宅だったので、何処へ行ってもほぼ同じ間取りである。お二人がご挨拶にいらしゃった時の「遊びにいらしゃい。」という言葉を真に受けて、数日後に私はひとりで訪ねて行った。うちと同じ間取りの玄関を通って六畳間の部屋に通されると、そこには初めて見るアップライトピアノとケースに入ったクラシックギターが置いてあったのだ。「この人たちなら分かってくれる。」と思い、あわてて家に取って返した私は、小脇にカラヤンの「こうもり」を含む数枚のレコードを抱えてふたたびお隣に上り込んだ。ご主人は傷だらけのレコードを見て少し苦笑いをされたが、そのままターンテーブルに載せてくれた。数曲ほどを聴き終えると、ご主人と奥様は「音楽が好きなんだね。よかったらピアノとギターを教えてあげるよ。」とおっしゃった。私は本当に夢でも見ているのではないかと思った。

 早速その日の夜に、私は母にそれを伝えたが、母の返事は実につれないものだった。「迷惑になるから、もうお隣に行ってはいけません。」しかも、数日後にご夫婦から直接に話しがあったときも、「ご迷惑になるから」と断ってしまった。本当にほんの一瞬の夢だった。

 そもそも、私の母方の祖父は自分の娘に対して非常に厳しい人であった。後年に聞いた話では、母は娘時代に門限を一分でも破ったら、問答無用で頬を張られて玄関から締め出されたそうだ。しかも、日没近くになってからの外出も禁じられていた。そんな母であったから、普段から私が知人や近所の家に邪魔することを好まなかった。近所の知人の家に行って帰ってくると、「何をして遊んだの?」「楽しかった?」といったことは訊かれなかった。その代わりに、「迷惑だったんじゃないの」「早く帰ってきなさい」といった小言だけを聞かされた。そのうち、私は「人の家に行くことは迷惑をかけることなんだ。」と思い込んでしまい、人の家に行くこと自体が億劫になってしまった。そして、それは大学生になるまで続いた。でも、それより大事なことは文化的なものに触れる機会を失ったことである。

 私の生まれ故郷は、はっきり言って非文化的な町であった。地元の進学校に進むことだけが名誉とされ、毎年三月になると地元の新聞には市内の高校合格者全員の氏名が掲載されるほどであった。いまでも、その町のネット掲示板を見ると、「チェーン店○○に進出してきてほしい」「いやそれよりも××の方が安くて品ぞろえがいい」といった低次元の書込みばかりが溢れている。

 私の家庭も同様であった。工場勤めの父は、仕事が終わると面子を集めて毎晩のように家で夜遅くまで麻雀を打っていた。私の子守唄は麻雀牌を掻き混ぜる音であった。そして、日曜日の午前中に父は家にいなかった。工場の仕事仲間との野球である。(後に営業職に異動してからは、取引先や同僚との丸一日かけてのゴルフや釣りとなった。)母は何もしてくれなかったので、私はレコードと本とテレビを相手に休日を過ごした。自転車は学校から禁止令が出されていた。大正テレビ寄席・新婚さんいらっしゃい・家族そろって歌合戦・テレビジョッキー・笑点アップダウンクイズすばらしい世界旅行…。情けないことに、私は小学校の高学年になるまで、日曜日午後というのは、日本中の人がごろ寝をしながらテレビを見る時間だと思っていたのだ。

 そして、きまって日曜の夜になると、父と母は些細なことから喧嘩をした。そのたびに、私はひとりで別の部屋に引きこもった。しばらくすると、私が逃げ込んでいる部屋にやってきた母が、無言のままで押入れからスーツケースを引っ張り出して、箪笥から洋服やら何やらを詰め込み始めるのである。これが毎週のように繰り広げられるのであった。

 また、この町には美術館も音楽ホールも史跡もなかった。一番近い動物園に行くには、一時間に一本あるかないかの列車で一時間はかかった。幼少の時期に、私はこれらの事物にほとんど触れることはなかったのだ。そういったものがあることも知らなかった。そして、音楽家になりたかった私に再びチャンスが訪れることはなく、非文化的な日常に埋没していくしかなかったのであった。